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ソーダの泡

思考や感情というものは「ソーダの泡」という感じがします。

透明のコップにたっぷりと注がれたソーダ。
それを眺めると、ソーダの中で小さな気泡たちがポコポコ湧いて、次々に消えていく。

意識の中で湧いては消えていく思考と、ソーダの泡のイメージが重なって感じられるようになりました。

単発でポコッと生まれた思考が次の思考を発生させ、思考は連鎖していきます。その反応の連続、まとまりを、「私」と思い込んでいるのが、普段認識している自分です。

ソーダの泡の連なり。それを自分だと思っているということです。

でもソーダの本体は泡ではありませんよね。

泡を泡と認識したとき、ぶくぶく泡だらけだと思っていたソーダは微炭酸になっていきます。
ソーダって美味しいねって思い出せます。

 + + + 

と言いつつ、泡も大事なのがソーダっていうのがまた面白い。
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.14 2012
エゴとは comment(2) trackback(-)

エゴはあっても良い。

昨日、より深く実感したのが
エゴは自分には何にも関係ない、ということです。

エゴ、思考、普段認識している「私」、個
どんな思考を持とうが
全部、まるっと、関係ない。

本質(本当の自分/存在、宇宙、幸せ)には
なんの影響も及ぼさない。

大きな存在の中で
風で木々が揺れるのと同じレベルで
思考も揺れたり動いたりしているだけです。

今回の気づきで大きかったのは
「エゴはいても良い。思考はあっても良い。」
ということです。
自分に影響を及ぼさないんだから
あってもなくてもいい。
これからも人間として生きるつもりなので
思考はなくならないでしょうから
あってもなくても同じなら、あっていい。

でもそれは自分ではない。

本質の意識とエゴに距離があるような感覚です。

近くにテレビがあって何か番組が流れてるけど
それを自分だ!とは思わない感じ。
どんな番組が流れててもいい。
家の外でカラスが鳴いてるけど
別に鳴いてたって構わない。
そんな感じ。

エゴの反応が面白かったです。
思考はあってもいい。って腑に落ちたら
「やっほーーーー!わーいわーい!」
って感じになりましたw
思考を観察したりすることに
縛られてる感じがあったのかもしれませんね。

でも、思考を観察しない方がいい、というわけではありません。
それも私には必要なことでした。
これからも観察したいと思ったらします。

エゴ・思考はあってもいい。
ただ、エゴは自分に影響しない
エゴが何を考えても関係ないんだ
という淡々とした心的態度が大事だと思います。

何を考えていようがいまいが、幸せであって良い。
ということです。

どうすればそういう内面になるのか、は
具体的にはわかりません。
1つの方法でみんな同じになれるルートはなく、
人の数だけそのルートがあると思います。

いろいろやってみたり、やめてみたりしてるうちに
だんだんわかっていくものでしょう。
でも遠回りしてると感じても、全てが必要なことです。完璧です。

…なんでフィナーレみたいな書き方になってるんだろ?w
まだ、もっともっと気づいていくと思うので
これからもレポートしていきます。
宜しくお願いします。
.19 2012
エゴとは comment(0) trackback(-)

思考とおなら

思考は機能です。
胃や腸が活動してるのと同じです。

いや、胃は消化するために動いているけど
思考は意味の無いおしゃべりを続けるので
胃よりも壊れた機能かもしれません。

思考のおしゃべりは、ある意味
おならみたいなものかもしれません。
(イヤな例えですみませんw)

腸が活動してできたガス。
思考が活動して湧いたおしゃべり。

そのおしゃべりを自分だと思って振り回される。
おならに振り回されてる。

思考に振り回されるってそれくらい
バカバカしくてどうでも良いことなんだと思います。

どんなにスピリチュアルで高尚そうなことを考えていたとしても
そこに苦しさを感じるなら
おならに振り回されている可能性があります。

本質は、考えて理解することではない
ってことが、わかってきました。
思考を超えて腑に落ちること。
腑に落ちるまでいかなくても
ただ感じるだけでも良いと思います。

考えるんじゃない、感じるんだ、です。
.11 2011
エゴとは comment(2) trackback(-)

足がつっているようなもの

何かに抵抗しているというのは
足の親指がつっているようなものじゃないか、とふと思いました。

エゴは私の本質ではなく、
もっと大きな存在である本質の、ほんの一部。
ある人の例えを借りるなら
海が本質で、波がエゴ

例えばこの体全体が本質だとして
足の親指がエゴだとしたら
私は、いま、
足の親指だけを本当の自分だ
と思っているということなんだと思います。

エゴが頑だと苦しくなる。
足の親指が変な方向に曲がったままだと
すんごい痛い。

だからなんなんだって話ですがw

自分をエゴだと勘違いして苦しんでいるのは
なんだかとても小さなことなんだなぁと考えるのは
ラクになって良いと思います。


エゴ(思考)は、自分の一部
内臓とか関節とかと一緒の単なる機能であって
本当の自分ではない。
エゴにとらわれると苦しいけど
でも、敵視はせず
内蔵にご苦労さん、というつもりで
エゴもご苦労さん、という態度でいればいいのかもしれません。
.23 2011
エゴとは comment(0) trackback(-)

制御したい☆ だが、断る。

現実をコントロールするのを「放棄」してみるのもいいかもしれない。
エゴの不安に反応しない。
不安を安心にするために何か(メソッドとか)をしない。


これは私のアイディアではなくって
桑田さんという方のブログを参考にしました。
→「知らんモンは知らん
HNが違うけど、通称桑田さんですw


んで。

コントロールするのを放棄するということは
「コントロールしたい状況」を
放棄すること。その状況の存在を支えないということ。
それを投影しないということ。

コントロールしたい状況
=気に入らない状況
=嫌な状況、満足しない状況

「嫌な状況をなくすために
コントロールを放棄するのは
コントロールするってことじゃないのか?」

って、エゴ(私)がめんどくさいことを言ってきたw


出来事に対して「嫌な」という評価をしているのはエゴ
ということは、「嫌だ」と思っているのは幻ってこと。

それに気づいた上で、コントロールを放棄するっていうのは
単に「その見解は真実ではないので、エゴの意見を採用しませんよ。」っていうこと。
ただ「本質的な自分でいますよ。」ってこと。

だと思う。


「メソッドとか何もしないんだったら
精神世界を知る前と変わらないじゃないか。」

とも、エゴが言う。

エゴの不安に気づいて、それを採用しないのと
エゴの不安に巻き込まれて右往左往するのとでは
全然違う。
不安に巻き込まれて右往左往するということは
投影(創造)された現実を拒否しているから
結局、また同じ問題がやってくる。

出来事は、本質的な自分が体験したくて創造していることだから
拒否しても、再配達される仕組み。らしい。

思考が創造する、とか、引き寄せとかでみても
「不安」や「コントロールしたい」という感情や欲求を持っていたら
それを創造することになる。


現実をコントロールするのを放棄するっていうことは
エゴの不安を幻であると見抜き、真実としないということ。
そして、起こるできごとを全て受け入れるということ。
それは、自分を受け入れることであり
やっぱり愛であり
本質的な自分である、ということなんだと思う。



::::実践メモ::::

「未来のことを先回りして考えたり、
何かしないと不安だあああああ!」

ってエゴがハッキリ言ったけど
そうごちゃごちゃ言ってくるのを面倒くさく感じてきて
「不安はわかったけど、なんもしない☆」
って態度を実際にとってみた。
けっこう心がざわついたけど、
同時に爽やかな気持ちにもなりました。

.13 2011
エゴとは comment(0) trackback(-)

☆あいさつ☆

ご来訪、ありがとうございます。
常春(とこはる)と申します。
精神世界に興味がある普通の人です。

ここでは、実践したことや気づいたこと、気になったことを、ゆるーくレポートしていきます。
自分のために書いていますが、 多少なりとも参考になれば幸い。
エゴっても生温かく見守って頂けると嬉しいです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

大事なのは自分を愛すること。
自分と対話すること。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆
7/27 ただいま放置中w
ご自分にピンとくるところだけ
美味しいとこ取りな感じで
テキトーに読んでいってください。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆
13.1.11 ツイッターのアカウントを削除しました。

14.1.27 メールフォームが機能してないかも??
なので、非表示にしました。

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